まんざらでもない

その後とその前 (幻冬舎文庫)

こちらは一番印象に残った、さだまさしさんの文庫版あとがきです。
P232
 生きるということは「苦しいこと」なのだということを発見してくれたのがお釈迦様です。
 そのお陰で救われた人が沢山います。
 ともすれば我々凡人は「楽しく生きる」ということと「人生は楽しい」ということは全然違うことなのだと気付きません。
 なので「人生は楽しいはずだ」と勘違いすることで、我が身に起きた不幸を逆恨みするようなことが起きてしまいます。
 人生は楽しいはずなのに、何だか毎日が困難で、何故自分だけがこれ程苦しい思いをしなければならないのかという思いに苛立ち「こんなはずでは無い」と、己の運命を哀しみます。
 それなのに何故あいつは何の苦労もせずにすいすいと生きているのだろう、などと他人の見えない苦労や実情など想像出来ず、傍目だけの視線で誰かを恨み、楽しそうに生きる人を呪うようになって、己を更に不幸の底に追い込んでしまうこともあるようです。
 だが逆にこの、お釈迦様の発見した「生きることは苦しいこと」というのを『前提』に生きてみると、確かに苦しいけれども、時々意外な楽しみや愉快なことに出合う、つまり「まんざらでもないじゃないか」と思うようになります。
 生きる上での、この両者の差は大きいですね。
「こんなはずでは無かった」と「まんざらでもない」。
 実は、生きるということはほんのささやかな考え方で大きく変わって行くもののようです。
 僕はそういうこともこの対談で教わりました。

 天国と地獄という考え方がありますね。
 善い人は天国に召され、悪人は地獄に落ちる。
 ・・・
 このことにも寂聴さんは明快な答えをお持ちでした。
「善人しかいないような場所なんて退屈でちーっとも面白くないわよ。有象無象の悪人のいる場所の方がよっぽど面白いじゃないの」
 胸のつかえが取れるような言葉でした。
 本当は悪人なのに時々善いことをすることがあり、本当は善人なのについつい悪事に手を染めてしまうことがある。
 これが世の中というもので、だから人生は面白くて、哀れで、滑稽なのだと池波正太郎さんも、幾度も書いていますね。・・・

寂聴さんの方の文庫版あとがきにも同じ内容がありました。
P229
 お釈迦さまは「この世は苦だ」と恐ろしいことをおっしゃっていますが、その一方で、亡くなる前には、
「人の世は美しい
 人の心は甘美である」
とも言い残されていらっしゃいます。