周りの声、自分の声

ボクは坊さん。

ここも共感しました。

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 ・・・大事にしたいことがあった。それは、「やりたいこと」と「できること」の多くは一致しないんだな、ということだった。自分のするべきこと、坊さんとしてとりくみたいことなどをノートに書き始めると本当にスラスラと書ける。しかし、「あー、自分にはできないんだな」と現実の実行の場面で、実感せざるをえない場面がずいぶんあった。これは、いろいろな分野の多くの人にとってそうであると思う。「できるといいな」と考えることの中で、「自分のできること」というのは、ほんのすこしであると思うし、だからこそ、「これだったら、自分にできるかもしれない」ということを、大事に丁寧に見つめたい。
 弘法大師が残した書物に触れていて驚くのは、時に天皇からの辞令などを手紙で断っていることである。もちろん、個人的にも親しくしている信頼関係があったからこそ、なのだろうけれど、当時の天皇の権威を考えると、「すごいな、勇気あるな!」と素朴にびっくりしてしまった。
空海聞く、良工の材を用ふる、其の木を屈せずして厦を構ふ。聖君の人を使ふ、其の性を奪はずして所を得しむ。是の故に曲直用に中って損ずること無く、賢愚器に随って績有り」(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第四)
 ・・・
 これは弘法大師が、「小僧都」という責任ある僧侶の立場を天皇から任命された時に、その要請を断りたい旨を記した手紙の中で出てくる言葉だ。その中で弘法大師は、自分は山林を家としてきたので、世の俗事に経験がなく、不適任であるだから、どうか、その任を解いていただきたいと丁重だけどきっぱり伝えている。
 弘法大師のような人物であっても、いや、そのような人であるからこそ、「自分に何ができるか」「どこへ向かいたいか」に敏感であったにちがいない。振り返って自分のことを見てみると、僕のようなものには、できないことがとんでもなく多く、できることは本当にわずかなはずだと、あらためてこの言葉から痛感せざるをえなかった。そしてそれは、とても大切な感覚だと思う。
「自分の声を発する」「論争に沈黙する」「自分のできる、わずかなことを知る」
 ・・・どんなことをやっても、どんな立場でも、さまざまな声が、いい意味でも悪い意味でも無数にかかってくるものだ。そのような時、人間は強くないのだな、と実感することが多い。はっきりいって僕はすごくその声が気になる。励みになることもあるし、それによって沈痛な気持ちを一日ずっともち続けることもある。でも、今の自分の結論としては、どんなテーマでも、両極端の意見を発する人は必ず存在するものなので、「こまったら自分に聞け」という、その言葉を呪文のように発しながら、自らの正直な声をまずは求めるようにしたい。