死の場面で・・・

ボクは坊さん。

ここも印象に残りました。

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 亡骸を中心に縁のある人が集まった「死の場面」で、僕は不思議な感覚を持った。その場所に、言葉にするのが難しいような、やわらかく、温かい雰囲気があるのだ。深いかなしみが充満しながらも、祝祭的ともいえるような独特で肯定的なヴァイブレーションが部屋に満ちている。亡くなった人が生きているかのように話しかける、遠くから駆けつけた息子さん。思い出話を、小さな声で始める若い女性。ただ座って、無言でその様子を見守る老人たち。そこには、痛みだけではない、なにか大切なものが遍満していて、僕たちを勇気づけている。
 僕が読経を始めると、すぐにまた、すすり泣きの声が聞こえ始めるけれど、最後まで、その場所から温かい雰囲気が離れることはなかった。
 僕がその死の場面で、温かななにかを感じることができたのは、その死を取り囲む、家族や縁のある人たちが、やわらかい雰囲気や感謝を込めた祈りをもっていたからだけでなく(それもあると思うけれど)、人間や生あるものが、心身の奥まった場所では、自分たちが死を抱えていることを、本質的、本能的には「嫌がっていない」部分があるからかもしれない、と今でも時々、考えることがある。人間が生を抱えている神秘や当り前さとまったく同じほど、死は僕たちにとって、気が遠くなるぐらい不思議かつ、極めつけに「自然じねん」な存在だと思う。だから、たまらなく怖くはあっても、時にしっかりとそれを正面から、受け入れることができるのだろうか。それは、今の僕にはわからない。ただ想像するだけだ。
「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」(弘法大師 空海『秘蔵宝鑰』)
 おそらく弘法大師の言葉の中で、もっともよく知られた言葉のひとつだ。あらゆる人々がこの言葉に魂を揺さぶられてきた。ただ僕が感じるには、この言葉はただ単に、生まれ死ぬことはわからないというだけでなく、その向こう側も視野に入れた言葉だと思う。つまり生死を繰り返す輪廻を「こえて」その先に向かう呼びかけのように受けとっている。
「生れることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」(『スッタニパータ』第三章)
 凡夫の僕には、生死はどこまでも透明な不思議さをたたえた存在だ。でもブッダ弘法大師が、そんな風景を見据えていたであろうことは、心のどこかに置いておきたいと思う。