心が体を動かす

「氣」の威力 (講談社+α文庫)

なるほど、なるほど。

P47
 客観的にはっきりと確かめられたなら、超能力も信用してもよい。だが、自分の眼で確かめもしないで、頭から超能力を信用してしまうのは愚かだ。・・・あり得ないことはあり得ないし、不可能なことは不可能なのである。
 しかし、正直に言うと、「氣は不思議なものだ」という風潮を最初につくってしまったのは、ほかならぬ私ではなかろうかと思っている。一九五三年以来、合氣道と氣の原理を普及するために、これまで私は何度となく渡米しているが、最初のころ、氣に対して関心をもってもらうため、私もアメリカでしばしば“不思議”なことをしたのである。
 アメリカ人にかぎらず、誰でも自分の体重を瞬時に、自由に変えられるとは思ってはいない。そこで、最初に渡米したとき、私は、大勢の人の見ている前で、いちばん大きそうな男を呼んで、日本人でも小柄な私の体をもち上げさせた。
 一回目はひょいと軽々ともち上げた。そこで、「もう一度やってごらん」といって、ふたたびその大男に私をもち上げさせた。ところが、二度目には、力自慢の大男がいくら踏ん張っても、私の体は上がらないのである。もちろん、私はどこにもつかまったりはしていない。
 これが氣だと説明すると、見ている者たちは驚いた。氣とは不思議なものだ、とみな感心していた。
 同じ人間がわずかの時間に体重を自由に変えたとしたら、確かに物理の常識に反しているし、それは不思議以外の何ものでもない。だが、私は自分の体重を変えたわけではない。・・・
 心の力を体に伝えれば、こんなことは不思議でもなんでもない。最初にもち上げられるときは、もち上げられるほうは、わざと上のほうを意識して考える。そうすると楽にもち上げられてしまう。二度目にもち上げられるときは、今度は全身の力を完全に抜いて、下のほうに体の重みがあることを意識する。こうなると、どんな力持ちでも人ひとりをもち上げることはなかなかできないのだ。・・・
 いうまでもないが、「心が体を動かす」のである。・・・
 食事を味わうのは舌であり、歩くのは足が歩くと思っている。だが、体はかってに動くわけではない。本当は、心が舌で味わっているのであり、心が足で歩いているのである。
「心、ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」
なのである。
 人間が心で考えたことは、すべて体に影響を与えているのは誰も否定しないだろう。・・・

P53
 心と体は本来一つのものであることがわかったと思う。これを「心身一如」という。つまり、どこからどこまでが心で、どこからどこまでが体であるという境目はないと信ずるのである。
「体の密なるを心といい、心の疎なるを体という」という言葉があるが、密度の濃いのが心で、うすいのが体である、と覚えておけばよい。