このあたりも改めて、そうだな〜と・・・

ある瞑想家の冒険―悟りに至るまでの半生、そしてその後

P53
・・・ある一冊の巻末に、タゴールウィリアム・バトラー・イェイツのインタビューがのっていた。イェイツは、死と称される未知の世界を恐れる普通のヨーロッパ詩人の典型だった。生涯を通して死への恐怖に向き合い、理解しようと懸命だった。タゴールの美しい詩を読んだ彼は本人に会いたくなり、その場を設けた。そして最初にタゴールにした質問はこれだった。「死について、あなたはどう思いますか?」
 タゴールの答えに、イェイツは驚いた。タゴールは、こう言って応じたのだ。「さあ、考えたこともありません!日々毎分、わたしは人生を楽しんでいます。完全にこの瞬間に生きていて、この上なく存分に楽しんでいます。毎瞬々々、今を楽しんでいて、そうして明日死が訪れたら、きっとわたしは死も楽しむでしょう!」
 言い得て妙だ!・・・
・・・
 毎瞬々々を、心を全開にして雑念なく見ることができれば、どの瞬間も理解し、楽しめるようになる。ならば訪れた死もそんなふうに見とめ、慌てず怖がらず、次の体験を落ち着いて受け入れることができるのだ!
 それが腑に落ちたわたしは、今ここにただ在ることがどれほど重要かに、初めて気がついた。

P106
・・・わたしは“何も起こらない”瞑想を受け入れられるようになった。瞑想はカルマの解放なのだ。瞑想中の刺激的な体験は、エゴにとってはよいものだし、瞑想へのワクワク感を持続させるのにもよかった。しかし、瞑想の本当の価値は、刺激的体験にあるのではない。瞑想の意義を最大限引き出せるのは、カルマを浄化しているときだ。イエス・キリストが弟子に言った、神殿を日々掃除せよ、とはこのことだ。肉体は、悟りに向かうわたしたちの乗り物だ。悟りが起こるのは、肉体と精神、そして魂が澄んでいるときだけなのだ。