この話が一番心に響きました

こうして、思考は現実になる

いろんな実話が載っていた中で、一番感動したのはこのお話でした。
少し長くなりますが、書きとめておきたいと思います。

P265
 キャリン・ジョンソンは、子供のころからずっと女優になりたいと思っていた。実際、最初にきちんと話した言葉が「私、演技が大好き」だったそうだ。
 ニューヨークの福祉住宅に暮らす貧しい家庭で育ったが、演劇の世界、または彼女が言うところの「他の誰かのふりをする」世界が、彼女の人生の大きな部分を占めていた。
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 八歳になると、彼女はハドソンギルド・コミュニティセンターの舞台に立つようになった。ここは彼女の地元にある施設で、託児所と子供の演劇プログラムを兼ねている。
 しかし、高校生になると、彼女の人生は大きくわき道にそれてしまう。読書障害があるために、知的障害があると誤解されてしまったのだ。彼女は高校を中退し、ドラッグ依存症になり、女優になる夢のことはすべて忘れてしまった。そして一九歳になると、母親と同じシングルマザーになっていた。
 しかし彼女は、勇気を出してドラッグ依存症を克服する。実際、彼女の娘の父親は、依存症克服の力になってくれたドラッグ・カウンセラーだった。ところが悪いニュースもある。それは、彼が父親にまったく向いてなかったことだ。娘のアレクサンドラが生まれた数か月後、彼は去っていってしまった。

 キャリンは高校中退で何のスキルもなかった。できることと言えば、子供の世話しかなかった。そこで友人の子供の世話をする仕事を引き受け、その友人と一緒にテキサス州ラボックに引っ越した。その後、友人はサンディエゴに引っ越し、キャリンと娘も喜んでついていった。
 やがてその友人との仲が破たんすると、キャリンはカリフォルニアで途方に暮れてしまった。お金もないし、スキルもない。車の運転さえできなかった。車社会のカリフォルニアで、運転免許がないのは大いに不利だ。
「私には高校の卒業証書もない」とキャリンは言う。
「私が持っていたのは、自分自身と娘だけだった」
 あとは、そうだ。「私は演技がしたい」というあの夢だ。それから彼女は、昼間はレンガを積む仕事をするかたわら美容学校に通い、夜は実験演劇のグループに参加した。しばらくの間、葬儀場でヘアセットとメイクアップの仕事をして、福祉の手当では足りない分を補っていた。「子供の靴が一足だけではかわいそうだ。一六五ドルで買った食材をどうやって一か月もたせようか。そんな心配ばかりしていた」と彼女は言う。

 そんな暮らしを続けながらも、彼女はずっと「どんなことでも可能だ」と信じつづけた。自分もキャロル・ロンバードになれるという思いを捨てなかった。自分もいつか、長いサテンのドレスを着て優雅に階段を降りてくる。
「演技の才能だけはずっと自信があった。これならできると昔からわかっていた」と彼女は言う。
 そのゆるぎない信念が、ついに一つのドアを開けた。
 一九八三年、「卒業」などの名作で有名な映画監督のマイク・ニコルズが、たまたま彼女の演技を目にしたのだ。実験演劇のグループのバークレー公演で舞台に立ったときのことだ。ニコルズはキャリンの演技に衝撃を受け、その場ですぐにブロードウェイの「ザ・スクープ・ショー」という舞台に出演する契約をする。これは女性の一人芝居だ。そして、スティーヴン・スピルバーグがその舞台を見て、彼女を映画「カラーパープル」のセリー役に抜擢する。そのころ、彼女は名前をウーピー・ゴールドバーグに変えていた。

「私は何でもできる。私は何にでもなれる。誰かにできないと言われたことは一度もなかった。おまえにできることは限られていると言われたことも一度もなかった。だから私は、いつも『何ができないか』ではなく、『何ができるか』という視点から考えている」
 彼女は自伝の「ブック」の中でそう書いている。
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「そう、だから私は、すべては可能だと信じている。私がそう断言できるのは、自分が実際に体験したからだ。自分のこの目で見たからだ。昔の人が奇跡と呼んだような現象を実際に目撃したからだ。でも、奇跡は本当は奇跡ではない。それは誰かの夢の結果だ。私たち人間は、楽園を創造する力がある。自分の手で、お互いの人生をよくすることができる」

そう、それは可能なのだ。
「何かが起こっていないからといって、それが不可能というわけではない。ただ、まだ起こっていないだけだ」