あるがままについて

東京に戻ってきました(^^)
三陸気仙沼に行くのは、今回初めてでした。
海から広がる平地の面積が・・・ずっと陸の奥の方までただ草が生えている平地を見ることはめずらしいので、2年半経ったとはいえ、大変なことだと改めて感じ・・・一方で、今はまたこんなに美味しい海産物が食べられるようになっているんだな・・・と、自然てすごいなぁ、人間てすごいなぁ・・・と思いました。


ところで話は変わりますが、塩沼亮潤さんの本と通じるなーと思うことが
少し前にご紹介した「ミヒャエル・エンデ」の中に、書いてありました。

P143
 ふたりがはなればなれにすわってにらみ合っているのを見て、モモはどっちのそばに行ったものかまよいましたが、どちらにも失礼にならないように両方からおなじ距離をたもって、石の舞台のはしにこしかけることにし、ふたりをかわるがわるながめました。そしてどういうことになるか、待つことにしました。なんであれ、時間というものが必要です―それに時間ならば、これだけはモモがふんだんにもっているものなのです。
・・・ 
 自信喪失のぐちの場合も、ニコラとニノのけんかの場合も、結局のところ、自分はちっぽけなつまらない人間だとか、あいつはけしからん奴だとかいった、なんらかの意味での「思いこみ」が原因になっている。自分を見かぎるのも、相手を見くだすのも、あらわれ方こそちがうが、どちらも自己主張であることにかわりはないのである。
 ところが無一物のモモには、そうした思い込みや自己主張がいっさいない。相手のあるがままに相手を肯定し、説得してやろう、慰めてあげよう、気持ちを変えてあげよう、といった、工夫やはからいをせず、ただ、じいっと相手の話に耳をかたむける。ぐちをこぼしにきた人間も、けんかをもちこんだふたりも、あるがままのモモのすがたにふれているうちに、自分たちが自己主張をぶつけていただけであることに気づき、自分たちのあるがままのすがたに目覚めていく。モモの弱さ、モモの何もなさ、自己主張のなさが、相手の存在を、深いところから生かしていくのである。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)