地球の果てまで連れてって

横尾忠則さんの「地球の果てまで連れてって」、実家で見つけて、モンロー研から戻ってから、読んでいました。


ちょうど今、そんなことを思ってた・・・ということが書いてあってタイムリーだったのですが、この本が書かれたのは昭和53年!
一応生まれてましたが・・・という頃です。びっくり(笑)
先人の歩いた道を、辿ってるんだなぁ・・・と思いました。

ピンと来た所を書きとめておきたいと思います。

P146
この世界(われわれを取りまく森羅万象)は、われわれがとやかく考えを起こさなくても、それらは勝手に存在している。考えを起こしたから存在したのではないのだ。それと同じようにわれわれも存在しているのだから、いちいち心を動かして、問題を作る必要がない。どこかに悟りがあると思うから悩むのである。われわれがすでに悟った存在者であるということを知らないのだ。事実を事実として見ることができないのだ。「私」という意識で物を見るから、事実を知ることができず、悩みが生じるのか―。何度聞いても、その時は理解できるが、数分後には忘れてしまう。

この最後の一行「その時は理解できるが、数分後には忘れてしまう」に、とても共感しました(笑)

P193
「私」を通して見る時、ぼくは様々な対象に自分なりの評価を与えながら、事物を区別して見ていた。だからどうしても相対的な見方をしてしまうのだった。貧富、美醜、善悪、といった具合に。
ところが、病後にインドを見る自分の目は、気のせいか変わっているように思えた。下痢の間、ぼくは自分の肉体にこだわり続けていた。肉体以外のことは考えられなかった。徹底的に肉体に執着していたせいか、病気から解放された時、ぼくは自分自身に何の重荷もないように思った。この感覚こそ禅に通ずるものだった。何ものにも心を奪われていない自分がいるのを、ぼくはふと発見した。ぼくを取りまく全てのものが、区別なく、ぼくの眼前にあった。
(中略)何かがわかりつつあるように思えた。もう少しでもっと重要なことがわかるようにも思えた。長い間考え続けていた禅の公案が解けそうな瞬間に巡り合っているようでもあった。だが、結局は魚が手の中からするりと逃げるように、どこかに姿をくらましてしまった。ぼくにとっては逃げた魚は確かに大きかったが、魚がぼくの意識の河にいたことがわかったことは大きな収穫だった。

こちらも、この最後の部分、魚が自分の意識の河にいたことがわかったことが収穫だった、という所にとても共感しました。
私もヘミシンクを聴いて、意識の河を深く潜っていくと、この魚に出会えるものの・・・普段は・・・(^_^;)
でもヘミシンクや先日のスウェットロッジなど経験するたびに、少しずつ確かに何かが変わっていってます(^^)