父親の自覚とは・・・

パパいや、めろん 男が子育てしてみつけた17の知恵

 この見立て、とても興味深かったです。

 

P138

 夏休みに関西に帰り、何年かぶりにサラリーマン時代の同僚女性に連絡をしたら、最近離婚をしてコンビニでバイトをしながら実家で子供を育てているという。

 ちょうど育児関係のエッセイを書いているという話をすると、

「ウチの元夫のこと書いてくださいよー」

 と言われたので、詳しく聞いてみたのだが、これがかなり身につまされる話だったため今回は「離婚」について書いてみたい。

 彼女が結婚したのは7年前。30歳のときだ。・・・夫はインドア派で、遊び人でもなく、熱中している趣味もなく、基本的には優しくて、「さらっとしてる人」だったという。仕事は中古車の営業マン。とくに悪い印象もなかったので付き合い始めて、その年に授かり婚

 そして7年で離婚するわけだが……それまでに4つの大きなきっかけがあったという。

 まずは子供が生まれたときのエピソード。

 

その1 無関心

 病院での出産のとき、彼女が陣痛で苦しんでいるにもかかわらず「俺やることないよね」と言って帰り、生まれてから数時間後にふらっと来てまた帰っていった。退院して彼女が自宅へ帰るときにも、「その日は忙しいからタクシーにのって自分で帰ってきて」と言って放置された。

 もちろん彼女はキレたが、あまりわかっていないようだったという。・・・

 

その2 自己中

 子供が2歳くらいになったときのことだ。

 ある日曜日、彼女は節約のためにお弁当を作って子供を連れて公園にピクニックに行こうとしていたが、その日になって夫が、「俺、今日演劇見に行くわ」と、一人で演劇を見に行ってしまった。

 残された彼女は公園でひとり、子供を遊ばせて弁当を食べながら泣いた。

「このときは悲しくてもうなにも言う気が起きませんでしたよ。でもまだ離婚までは考えてなかったかな」

 子供が3歳くらいになれば、夫も父親の自覚がでてくるだろうと楽観視していたという。

 そして……。

 

その3 ケチ

 子供が3歳になったある日の休日、彼女は子供といっしょに銭湯に行こうとしていた。

 そこへ夫が帰ってきたので、一緒にどうかと誘うと、彼はうーんと唸って、

「銭湯って高くない?お金がもったいないよ」

 と言って、400円を渋ったのである。すっかり銭湯に行く気だった子供は泣き出し、彼女は惨めな気分に打ちひしがれた。

「専業主婦だからお金のこと言われるとどうしようもないんですよ。罪悪感もあるし。でも今考えると完全に経済的モラハラですよね」

 ・・・

 そして最後、

 

その4 見栄っ張り

 ある日、夫がキレた。彼女のランチ代が高いというのである。

 たしかに近所のママ友と週に1回か2回ランチに行っていた。月にすれば5000円くらいの出費である。専業主婦の負い目もあり、しょうがないなと思い、彼女はそれからママ友とのランチは控えるようになった。

 ところが、ある日のことだ。

 夫が「駅前にできた友達の飲み屋に出資した」という。聞けば最近知り合った友達に絶対儲かるからと言われたらしい。怪しいと思ったらやっぱりすぐにお店は閉店。出資したお金は帰ってこず。そのせいで家計が苦しくなり、彼女は働き始めた。反対に夫は仕事をやめた。

「あ、この人ヤバいな、ってこのへんで気づいたんですよね」

 ・・・

 話を聞き終えて、「他人事じゃねえな……」とつぶやいてしまった。

 この夫が犯した「無関心」「自己中」「ケチ」「見栄っ張り」という、「4つの大罪」はたしかに重い。

 しかし……同じ男であるぼくにも覚えがないわけではない。

 ・・・たぶん、彼に悪意はない。話を聞く限り、・・・執行猶予がつく可能性がある。

 

その1 無関心

 この無関心エピソードだが、詳しく聞いてみると陣痛中に彼女はイライラして、「もう帰って良いよ」と言ったらしい。これがポイントだ。

 この夫のようなタイプは、あまりものを深く考えていないので、言葉の裏を読むことをしない。彼女の言葉をそのまま受け取ってしまった可能性がある。

 

その2 自己中

 この状況も詳しく聞いてみると、前日に「演劇行こうよ」と誘われて、彼女が「明日は公園行く予定だよ」と返したそうだ。ということは……夫の頭の中では「あ、そうか、彼女は用事があるんだな。邪魔せず俺一人で行こう」と変換されたのである。

「は?なんで?頭おかしくない?」

 と思うだろう。いや、おかしくはない。なぜならおそらく彼くらい父親の自覚がない人間は、そもそも家族という単位に自分を入れていない可能性がある。こういうタイプは、無理矢理子供と二人きりにさせないと自覚が芽生えない。

 

その3 ケチ

 単なるケチエピソードと思えるが、ぼくの見立ては違う。これはかなり父としての自覚が芽生えている。自分がすべての面倒をみなくてはいけないといううっすらとした不安から、突如として緊縮財政を発動させてしまっているのだ。つまりこれは家族の一員として経済観念が発達してきた証拠なのである。悪いことではない。問題は発動するタイミングがおかしいことだ。・・・

 

その4 見栄っ張り

 これも前述したように緊縮の行き着く先である。そう、人は節約したあと、お金を増やすことを考える。そして失敗するのである。ぼくから見ると、この時点で彼はかなり父親の自覚があったのでは、と思える。出資も、見栄ではなく本気で「イケる!」と思っていたのだろう。失敗したあと、彼女が仕事をはじめて、彼が仕事をやめたのはおそらく彼なりの反省パフォーマンスだったのだ(実際は自殺行為だったのだが)。

 

 つまり彼は、ある意味で裏表のない純粋な人だったのである―というような話をしてみたのだが、彼女に、

「今の話みたいな心理だったらそれ……完全にヤバいやつですよ……別れて良かった」

と言われた。

 いやいや!違うよ!俺も似たような経験あるからわかるんだよ!

 そう言うと、彼女は、

めろんさんも慰謝料準備しといたほうがいいですよ……」

 と言い、冷たい目で去って行った。

 ……世の中の奥様方たちとの深い溝を埋めるために、『パパいや、めろん』は存在しています。

 

パパいや、めろん

パパいや、めろん 男が子育てしてみつけた17の知恵

 AIにまつわるエッセイが面白かった海猫沢めろんさん・・・の名前を、そういえば子育て本の棚で見かけたことがあったような?と思い、見てみたらありました。

 視点が面白かったです。

 

P6

 震災がおきた2011年。シェアハウスで同居していた彼女とのあいだに、子供が生まれた。保活に戸惑い、なにもかもわからないまま自宅で面倒を見た1年目が終わり、翌年、パートナーが体調を崩した。別居してぼくがワンオペせざるをえない状況となり、ぎりぎりなんとか保育園に入れることができたものの、そこは区外の認証保育園だった。

 子供を育ててわかったのは、東京で育児することの異常なほどの困難さだ。・・・

 そんなデスゲームを生き延びた数年後……。

めろん先生。子育てエッセイやりましょう」

 編集さんにそう提案されたのは2017年のことだった。

 ・・・

 とにかくまずぼくが言っておきたいことは、もしあなたがたが出産前なら、いますぐに三種の神器SSDを買っておけ!ということだ。

 SSDとはなにか?

・洗濯乾燥機(SENTSAKU KANSO KI)

・食器洗い機(SHOKKI ARAI KI)

・電動自転車(DENDO JITENSHA)

 この3つである。

 所帯じみていて申し訳ないが、マジでこれだけで戦力が違ってくる。

 保育園にはいれようがはいれまいが、離婚しようがしまいが、日々の家事は必ずやるはめになる。これが軽減されるだけでもメンタルは非常に楽になる。

 絶対買え。今すぐ買え。中古でいいから買え。死ぬぞ。

 まあ死ぬは大げさにしても、これがあるとないでは家事の負担がまったくちがう。

 まず洗濯乾燥機だが、子供が生まれると、これまでのように洗濯してから干すなどとまどろっこしいことはやっていられない。タオル消費が半端ない。片っ端から洗って乾燥機にかけよう。

 つぎに食洗機。子供がいると食器をていねいに洗っているヒマはない。洗えるのは哺乳瓶だけだと思っていい。食洗機なら高温洗浄でバイキンも殺せるので安心だ。

 ・・・

 最後に、大本命である電動自転車だが、これだけは死んでも買うべきだ。10万くらいするが、分割払いにしてでも買うべき。とくに子供が3歳くらいになると必須。ウチは近所が坂だらけだったので無茶苦茶重宝した。これがあれば2駅くらい先の保育園なら余裕でいける。

 ・・・

 このSSDだが、ガチで買えば30万円……中古でそろえても10万円くらいしてしまう。クソ貧乏なぼくには正直めっちゃきつかったので、4年くらいかけて順次導入していった。

 しかし、買うたびに「なぜもっと早く買わなかったのか……」と思ったので、これを読んでいる方々は最初から導入を検討してほしい。

 あと日本はまずこのSSDを家庭に無料配布するところから始めていただきたい。保育園がつくれないんだったら、せめて日常が楽になるインフラを整えてほしい。

 ついでにもう一つ、男子であるぼくから世の中の父親に言っておきたいことがある。

 今日本に必要なのは徴兵制じゃない……徴父制だ!

 男が出産前にゲットするべき三種の神器SSDのついでにもう一つ、言っておきたいこと。

 それは、

 男の育児は「とりあえずワンオペ」から

 である。

 もし育児にちょっとでも協力する気があるなら(ない場合は離婚訴訟で慰謝料を払う準備をしたほうがいいだろう)、まず子供と二人きりですごしてみてほしいということだ。

 男性は女性に旅行に出かけてもらうとか実家に帰ってもらうとかして、ひとりで3日くらい子供の面倒をみてみると良い。会社員なら金曜夜から日曜まででもいい。とにかく完全なワンオペをしてみてほしい。

 そうするとどうなるか。

 気が狂いそうになるのである。

 これはマジでヤバい。

 子供の機嫌によってはおんぎゃあが止まらないときもあるし、ついでにゲロが止まらないときもある。おまけにこっちのスケジュールなどおかまいなしにすべてをぶち壊してくるうえに、会話も通じない。

 モンスタークレーマーなど生易しいものだ。壊れたおもちゃかと思うくらいしつこい。聖人かよほどの赤ちゃん好きでない限り耐えられない。どんな屈強な男でも8割は音を上げる(当方調べ)。

 それでも感情のスイッチを切って育児機械になり、ミルクとおむつとだっこを繰り返す。それが男の育児だ。

 適性とかそういうものではなく、やるしかないのである。母性とか父性とかそういうものはどうてもいい。人類には最初からそんなものはないと思ったほうが良い。

 とにかくやれ。

 体育会系の男がよく言うセリフなので、マッチョな男はきっとやれる。必ずやれる。とにかくやれ。

 このような地獄のワンオペだが、3日だけでもやると産後の女性の苦労に共感できるようになる。

 理解とかではなく「共感」であることが重要だ。

 そう、頭で理解ではなく心で共感しなくては人は動かない。これはビジネスでも同じだ。世の中の大企業は、善きビジネスマンを増やすために男子のワンオペ育児を推奨するべきだろう。

 この国にひとつの具体的政策を提案したい。それは徴兵制のかわりに徴父制をつくることである。

 ・・・

 

P59

 子供がYouTubeを見すぎている―少し前にそんなブログのエントリが話題になった。

 ・・・

 ぼくも同じようにこの問題に直面した。

 0~4歳くらいの幼児期に限って言えば、ウチではタブレットなど動画はハードごと封印し、さらにテレビを見るにしてもルールを決めた。

 ・・・

 幼児のYouTube問題とは結局のところ「親がなにを見せてなにを制限するか」という問題に落ち着きそうである。

 それでもYouTubeを見る子供が許せない場合、いささかエクストリームではあるが、親がYouTuberになることを提案する。

 そうすれば子供になにか別の種類の刺激を与えることが可能だ。

 実際に、ぼくはこないだ、海猫沢めろんチャンネルを開設し、テンションだけで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読むという動画をYouTubeにアップし、子供と一緒にそれを鑑賞した。

 やはり知っている人間がYouTubeに登場するのはインパクトがあるらしく、彼は「あははは!」と笑いながら真剣に見入っていた。

 そして、YouTubeを見終わってひとこと、

「うーん……カンダタ、たすかるとおもったんだけどなあ~」

 え……そっち?めっちゃストーリーに入り込んでるじゃん。俺に突っ込んで欲しかったんだけど……まあいいか。

 今や8歳となった彼であるが、成長して小手先の説得は通用しなくなってしまった。現在YouTubeは勉強をしたあとのみに30分だけ許しているが、たまにぼくはこう言って怒る。

「ゲーム実況動画ばっかり見てないで自分でゲームやりなさい!」

 ついに新世紀が到来した。

人生の十か条

人生の十か条 (中公新書ラクレ 634)

 辻仁成さんのエッセイ。

 なんだか絶妙にちょうどいい感覚で、読んでよかったです。

 

P39

「頑張り過ぎず、とことんやらず、

 ほどほどに生きて、まっとうしたい我が人生」

 

P106

人が疲れる 十の理由

 

その一。やりたくないことをやるから

その二。無理して頑張るから

その三。我慢するから

その四。なんでも引き受けちゃうから

その五。他人と比較するから

その六。疲れさせる人間が近くにいるから

その七。なんでも信じ過ぎるから

その八。誰にでもいい顔しちゃうから

その九。成功だけを目指すから

その十。自分を大事にしないから

 ・・・

 思えば、自分と言いますけど、肉体、心、魂など、私という存在はいくつかの重要な要素で構成されております。ものといえるのは肉体だけですが、もっと言えば、精神や意思などもその概念の一部かもしれません。

 自分というのは一人ですけど、この自分はいくつかの自分で形成されているのです。肉体の中にも心臓や肺や脳や肝臓など、とても重要な部位があり、心臓のように自己の意識では動かすことができない不随意筋もあります。不随意筋には心筋のほかに、平滑筋と呼ばれる胃腸などの筋肉もあります。

 ・・・意思とは無関係に動き続けるもう一人の自分。つまり、考え方によっては、不随意筋はもう一人の私なのです。不随意筋だけに何か人間を超えた天の力を感じざるを得ません。

 ・・・私は様々な自分の部分や構成要素で形成されているわけです。ですので、私は「チーム自分」と呼ぶようになりました。・・・

 ・・・

 その後、私は晩酌をチーム自分とすることになりました。それぞれの肉体のことを思い、自分の心や精神や魂にも耳を傾けています。一丸となって自分を動かしていこう、と考える時、そこに健康が見える気がします。

 さ、今日もよく生きました。ベッドに潜り込み、まずは自分に「おつかれさま」を言います。明日もまた頑張れそうです。不随意筋たちには申し訳ないのですが、一足お先に休ませていただきます。

 

P148

 生まれてから今日まで時間に支配されないように生きてきました。

 なぜ、そう思ったのかはよく覚えてないのですけど、父親が猛烈社員、仕事の鬼で、いつも腕時計ばかり見ておりました。父親に遊んでもらった記憶のない私はなぜか時間のせいだと思い込んでいたような節があります。それで腕時計というものをしたことがなかった。受験の時でさえ、腕時計を持たないという徹底ぶりでした。

 ・・・

 ところがところが、六十年近くも腕時計をしたことのなかったこの私が、つい最近、腕時計に一目ぼれをして買ってしまったのですから、大事件。

 その日、私はふらふらと散歩をしていたのです。・・・ショーウィンドーにとある腕時計がぽつんと飾られていたのです。

 とってもシンプルな時計ですが、何か変。よくよく見ると、針が一つしかない。

 どうも短針のようですが、文字盤は十二等分されており、普通の時計と同じく十二時間を表しています。しかも一時間ごとにさらに小さく十二メモリに分かれています。一メモリが五分を表します。だから六メモリで三十分、十二メモリで六十分になるわけです。

 かなりわかりにくい、読み取りにくい腕時計でした。

 けれども、時間に支配されたくない願望の強い私にとって、この腕時計のアバウトさはまさにピンポイント。何か時間を小馬鹿にしている感じも面白い。

 説明書には「精確な機械」と記されております。笑いがこみ上げてきました。

 これならば腕に嵌めても問題ない、いや、むしろこういう時計をすることで時間を手懐けることができるのじゃないか、と思いついたのです。

 すぐに店の中に入り購入しました。お店の人に「あなたはなぜこの時計を買うのですか?」と逆に質問されてしまったのです。店側もこの時計が売れるとは思ってもいなかったようで……。

 ・・・

 アフリカのある部族は時間を持ちません。彼らはつねに永遠の今しか存在しないのです。不思議な感覚ですが、昨日も、明日も存在しない世界。・・・常に今の中で生きている人たちがいるのです。

 ・・・

 ・・・彼らは常に今の中で生きていて、過去や未来を気にすることがないのです。それはいったいどういう感覚でしょう?

 

P205

 私は息子に「おかげ様で」という気持ちを持っています。息子のおかげで今の私があるということです。

 私は老いた母親に「おかげ様で」とつぶやくことがあります。母が私を支えてくれなければ今の自分などとっくにないということをやっとこの年で悟ることができたからです。

 昔の私はもしかすると「自分自身の努力のたまものでこの成功があるのじゃないか?」と真剣にうぬぼれていたのかもしれない。・・・

 今の私は友人や家族や息子のおかげで生きていることをよく知っています。このことに気が付くことができただけでも、生きている意味がありました。これは人生の宝物に違いありません。

「あなたのおかげで自分がいま、生きることができている」という感謝の気持ちを持つこと。人間の基本なのじゃないか、と私は思っております。

情動と理性

死を受け入れること 生と死をめぐる対話

 この辺りのお話も、興味深いな~と思いました。

 

P92

小堀 これは脳と関係があると思うから、養老先生にお聞きしたいのですが、八十代の男性患者で、何か外部で変化があると、「バカ、バカ」と言う人がいるんです。幸い、奥さんには言わないのですが、看護師が血圧や体温を調べようとしても「バカ」と言って測らせない。

 ところが、娘から電話がかかってくると、「元気かい?」と機嫌よく声をかける。だけど、その娘が面会に来ると、「バカ、バカ」と言う。

 僕が考えたのは、脳のどこかにその娘が、少女時代、自分が育てた三歳か四歳の頃の音声で彼の脳を刺激するところがあるのではないかと。しかも電話でないとダメなんです。

 

養老 「カプグラ症候群」というのがあって、それに罹った人は自分の母親や父親をそうではない、知らない人だと言うんです。

 ところが、電話で話すと本当の親だと言う。僕が聞いた説明では、その場合、視覚と感情、要は脳の辺縁系と結びつく経路は切れているけれど、聴覚と辺縁系の経路は切れていない。

 だから、声を聞けば、懐かしいとか、親しいとかいう感情が起こるんだけど、視覚からはそういう感情が起こらない。やっぱり、情動と論理は切っても切れないんです。

 

小堀 電話と肉声では違う。目をつぶって声を聞けば良かったのかもしれませんね。

 

養老 普通、情動と論理がつながっているとは思っていないでしょう。

 

小堀 正反対だと思っています。

 

養老 一番、それを強く言ったのは数学者の岡潔です。数学者はむしろそれに気がついていて、「情動と論理はつながっている」と言っています。普通は切り離されていると考えるのですが、理性だけを切り離すことはできない。理性だけを切り離すと、先ほどの話のように、親を親として認識できなくなってしまう。

 岡潔がずっと数学をやっていたのは、非常に強い感情に動かされていたからです。それを彼は自分で知っていたから。そこがえらいんです。・・・

 僕はずっと大学にいましたけど、「理性は理性だ」という教育は、結局間違っていたという気がするんです、この年になると。もっと素直に、人そのものを受け入れるべきだったと思います。

 ・・・忠犬ハチ公もそうでしょう。

 記憶というのは感情と結びついているんです。感情と結びつかない記憶はすぐに消えてしまう。・・・

 

死を受け入れること

死を受け入れること 生と死をめぐる対話

 小堀鷗一郎さんと養老孟司さんの対談、興味深く読みました。

 

P64

養老 僕は「気がついたら死んでいた」がいいです。よく、「死ぬならがんになるのがいい」と言う人がいます。死ぬ前に準備ができるから。だけど僕は、そういうことをしたいとは思いません。行きあたりばったりのほうがいい。

 

小堀 僕も全く同じです。「往診中、車を駐車場に入れた時に」と答えたこともありますが、聞かれればそう言うこともあるだけで、確固たる何かがあるわけではありません。

 ただ、病院のベッドで寝ていたくはないですね。・・・そもそも、一日のリズムが決められていますし、ご飯が美味しいとは言えない。だから病院では死にたくないですね。

 

養老 僕も病院は嫌です。だって禁煙だから(笑)。それに象徴されています。いろんなことをきちんとやらなくてはいけない。・・・

 

P180

小堀 僕にとって生と死の境目は、非常におぼろげなものになってきています。詩人の茨木のり子さんの「さくら」というタイトルの詩に「死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」という一節があるんです。わかる気がします。

 ・・・

 僕は八十二歳になったけれど、常にそういう思いで、生の後ろに死、死の後ろに生を見ています。「死を怖れず、死にあこがれず」です。

 

P71

 虫捕りは、小学四年生くらいから本格的になって、その頃から標本を作っていました。・・・

 山岳部の学生と一緒に山に行くと、彼らのほうが先にバテます。でもそれは当たり前だと思って。だって僕、何年やっていると思います?小学校四年から続けていますから。それでも飽きない。山に登ろうと、歯を食いしばっていたらバテます。僕は遊びながらやっているから、余分に歩いたって平気なんです。

 これが人間の変なところで、遊び半分でやったほうがいい。人生は遊び半分でいいんです。

 

P87

小堀 生前に献体の登録をする「白菊会」は、まだあるんですか?

 

養老 はい。・・・

 ・・・献体する人は減少してはいません。献体すれば後のことは、全部大学が面倒を見てくれますから、家族にとっても悪いことではないんです。毎年天王寺台東区谷中)というお寺で、慰霊祭もやっています。

 でも、バカな人がいて、慰霊祭が憲法違反だと言ってきたことがあるんです。国は宗教活動をしてはならないという法律があるのに、国立大学がやっていると。

 ・・・

 そこで印象的だったのが、・・・法学部の松尾浩也部長に、医学部の学則と法学部の学則を比べて、ここの条項の語尾だけが違うけれど、法学的に何か意味があるんでしょうか、と聞いたら、松尾先生は「解釈せよとおっしゃれば、いかようにも解釈できます」と言ったんです。

 これは、世の中のことがものすごくよくわかっているということです。つまり世間は言葉では縛れない。それを法学部の人はよく知っている。だから、最初からできるだけ解釈の余地が残るように作ってある。それが大人の法律です。

 それで僕は、慰霊祭はこれまで通りやると決めました。憲法違反かどうかは、法律の解釈の仕方によると考えたからです。

 だけど、今は逆でしょう。解釈の余地がないようなルールを作って、普通の人が官僚みたいなことを言います。まるでコンピュータです。人間は適応性が高いから、コンピュータに似てきます。・・・人間は融通が利くものだと忘れているんです。人は柔らかいということに気がついていない。

 ・・・

 情報というのは瓦礫の山なんです。・・・

 ・・・人間の柔らかさはすごいのに、それをわざわざ硬くしようとしています。瓦礫ばかり見ているからです。明日になっても変わらないものばかりでしょう。瓦礫の山を溜め込むことを「情報過多」と言うんです。

「おまえは昔こんなことを言っていただろう」と責めるのはバカなんです。「それ、俺じゃないよ」と。十年経ったら俺じゃない。

 小堀先生もずっと変わってきたわけです。それが生きているということで。・・・

「その後」のゲゲゲの女房

「その後」のゲゲゲの女房

 表紙の「あるがままに。すべてに感謝!!」という言葉を見て、ほんとうにいつもそうありたい・・・と思い、手に取りました。

 

P3

 思えば私の人生は、自らオールを手にして舵をとる生き方ではありませんでした。自分一人の力で逆流を乗り越えることなどできるわけもなく、本当に川を流されるように生きてきた人生です。

 人様に誇れるような人生ではありませんが、これからもずっと、あるがままに自然体で、自分に起こるすべてのことや、関わってくれるすべての人たちに感謝して生きて行こうと思っています。

 

P148

 水木は数多くの自著の中で、いろいろな言葉を残しています。・・・

 ・・・

 たとえば水木はあるとき、次のように書いています。

 

 思い巡らすと、水木サンの過去は駆け足の如くいつも忙しかった。

 老後の「めし」のことまで心配していたせいかもしれないが、人間というものは金がないと安心できないものだ。

 例えば宗教なんかに凝って、金以外で安堵の道を求める人もいるが、

 まァ普通は少しばかり金を貯めてホッとする道を選ぶものだ。頭は良いけど金の儲からん人もいる。

 そういう人は得てして「悟り」とか「金を否定する心」になったりして幸福ぶってみるわけだ。

 しかし、人生大きな声を出して「これぞ価値だ」と言うのもバカバカしいような気がする。

 要は虫とか植物みたいに自然に順応しながら「屁」を出しているのが一番幸せなのかも知れない。

 時には屁を止めたり、溜めてみては大きな屁をひねってみるというのも面白いだろう。

 要するにすべては屁のようなものであって、どこで漂っていても大したことはないようである。

(『人生絵巻のお話』)

 

 この言葉は、水木の人生観を言い表わしているように思います。水木はつねづね、人間も虫や植物、そのほかの動物と同じ大地に生きるものであること。一生懸命生きている虫や草も人間と同じだと話していました。

 

P158

 水木は自著『水木サンの幸福論』(角川書店)のなかで、こう書いています。

「ベビィのころは誰もが、好きなことに没頭して生きていたはずだ。人間は好きなこと、すなわち〝しないではいられないこと〟をするために生まれてきたのです」

 

P176

 私にとって初めての著作となる『ゲゲゲの女房』を出版していただいてから、早くも10年という月日がたちました。

 普通の主婦に過ぎない私の話を多くの皆さんに読んでいただき、本当にありがたく思っています。そして、3年前には、水木が帰らぬ人となりました。お葬式や法事などを家族の助けで何とか過ごし、日常生活を取り戻したこの頃。落ち着いた日常に、つくづく水木の不在を感じて寂しく思っています。

 そんな最近の私の心情は、「あるがままに、すべてに感謝」という言葉がしっくりきます。前作の『ゲゲゲの女房』では、「終わりよければ、すべてよし」という言葉で締めさせていただきましたが、あれから10年たって、少し変わってきたようです。

 ・・・

 ・・・水木に、

「お母ちゃんは、生まれてきたから、生きている」

 と言われるくらい、今までの私は水木の背中だけを見つめ、自分自身のこれからについては考えずに生きてきました。

 ですから、終わりに向かって歩いていくのではなく、これからの人生もあるがままを受け入れて、いろいろなことに感謝して生きていきたいと思っています。

「あるがままに生きる=無為自然」という言葉が、今の私にはぴったりくるのです。

 そうは言っても「あるがままに生きる」のは、そう簡単なことではありません。なので、「終活」ならぬ「無為自然活」を心して、自然体で歩いていきたいですね。朗らかに、毎日流れるままに人生を全うできれば、『上等』だと思っています。

見えるものは・・・

ガザ、西岸地区、アンマン 「国境なき医師団」を見に行く

 このエピソード、印象に残りました。

 

P194

 手前のベッドの上に一人の父親がおり、その横に2人の少年がいるのがわかった。・・・

 ・・・彼らの顔は正視しづらかった。両目とも正常なようだし、鼻の穴も口も開いていて、あの取材を断られてしまったフードの男性のようにどこが失われたかさえわからない状態ではないのだが、それでも一方のまぶたが垂れ下がってしまっていたり、唇の一部をなくして歯が出ていたり、頬の一部が隆起していたりする。腕にも手の甲にも火傷の痕が赤黒く這いずり回り、どこに視線を送れば失礼でないか俺は迷いに迷った。

 ・・・

 少年は兄アミールが11歳、弟ヌールが10歳。

 ・・・

 イエメンのアムラン州に住んでいる彼らは、2015年8月に町ごと迫撃砲で攻撃された。

 ・・・

 最初はアミールもヌールも少し緊張していて、お行儀よくというか体を固くしてベッドに腰かけていた。彼らは自分たちが話題の中心だとわかっており、そうそう勝手な動きもしにくいと判断していたのだろう。聡明であることは逐一の反応でもよくわかった。

 ・・・

 しかし、10分も経たないうちに不思議なことが起こった。

 まず俺は、さっきまで音楽室で一緒に太鼓など叩いていたヌールが、体を左右に揺らすのに自然に反応してしまっていた。それは言語を超えた、まあ子供っぽいやりとりだった。一方は本当に子供だし。

 そのヌールがやがて、こちらをいたずらっぽく見上げるのがわかった。俺は思わず両手で爪を立てるような仕草をした。熊というかライオンというか猫なのか。ヌールは笑い、すかさず逃げるふりをした。

 一方、兄のアミールにも俺はすぐに話しかけた。名前を呼ぶ以外、彼らの言葉は何もしらなかった。すると顎の細いアミールはベッドに敷いてあったシーツを引っぱり上げ、その中に顔を隠した。よく見ると、シーツの向こうでアミールが震えて笑っているのがわかった。

 ・・・

 今度はいたずらっぽい目のヌールがこちらを見てくすくす笑うのを俺は相手にした。続いて兄アミール。遊びの間でも彼らはやたらに恥ずかしがるのだが、それがこちらの思うつぼであった。くすぐらなくても、少しでも手を近づけるフリをするだけで2人はくすぐったがって笑うからだ。

 ・・・

 そして俺に不可思議なことが起こった。

 笑っているアミールとヌールの、火傷前の顔が俺の目にはっきり見えてきたのだった。

 まるで表面に映されていた余計なCGか何かがなくなっていくかのように、彼らが受けた傷の向こうにある、何年か前までの彼らの表情が俺には確実に見え、隆起や欠損が薄らいでわからなくなったのだ。

 わ、なんだ、これ?

 この体験に俺は出し抜かれ、呆然とした。

 ・・・

 撮影を終え、子供たちに別れを告げると、俺たちはランチのために病院を出ようとした。すると、横にいた舘さんがもはやひとりごとのようにこう言うのが印象的だった。

「誰も恨みつらみを言いませんね」

 そう、彼ら誰一人として他人を責めなかった。それは病院の中で、自分よりもっとむごい体験をした人を知っているからかもしれないし、俺たちアジア人にそんなことを言っても仕方がないから、あるいはすべてを神のおぼしめしと受け取る文明の中を生きているからだろうか。