お骨が喜んでいる

世間とズレちゃうのはしょうがない

 お二人の会話から、いろんな刺激をもらえました。

 

P51

伊集院 さきほど「言葉というものを信じない」とおっしゃいましたけど、じゃあ、言葉で書かれた科学論文についてはどうでしょう?

 

養老 本音を言うと、そういう「理論」をバカにしてるわけですよ。

 ・・・

 そりゃそうですよ。そんなもの、本気になって信じるかよ、というのがどこかにあるんですよ。

 ・・・

 ・・・だから脳みその話に興味があるのは、そんな理屈を言ったって、それを考えているのはおまえの脳みそだろうが、とそこへ戻るんですよ。

 脳みそをいじったら、いっぺんに変わるだろ、ということです。「科学的に証明されたから正しい」と思っているのは、科学者の意識でしかないわけでしょ。意識っていったん寝たら、なくなってしまうようなものですよ。しかも意識は自分で出たり引っ込んだりしているわけじゃなくて、睡眠とかアルコールで、いわば「あなた任せ」で現れたり消えたりしているんです。

 ・・・

 一九九六年に❝The End of Science❞(邦訳『科学の終焉』竹内薫訳、徳間書店)という本が出たんだけど、ジョン・ホーガンというジャーナリストがノーベル賞をもらった世界中の有名な科学者たちに会って、「科学は世界を解明するか」という簡単な質問をしているんです。結局、答えの九割九分「解明するわけねえだろ」(笑)。

「科学が進歩すれば、世界がだんだん解明されていく」ことが一応建前じゃないですか。でもやっている本人たちは信用していないことが分かるわけ。要するに科学が完全に煮詰まっている。だから「科学の終焉」なんですよ。

 

P135

伊集院 突然ですけど、先生って驚くことはあるんですか?

 

養老 驚いた経験というと、解剖を終えて、遺族にお骨を返しに行くときのことですね。

 東大の赤門を出たんですよ。白木の箱に収めた骨壺の中にお骨が入ってるんだよ。そのお骨が突然、動き出してガタガタガタガタ。はっと立ち止まるわけですよ。僕が揺すったわけじゃないから。それでまず何を思ったかというと、「このお骨は泣いてるのかな、笑ってるのかな」。

 お骨を遺族に返しに行くと分かるんだけど、歓迎されるお骨と歓迎されないお骨があるんですよ。・・・

 ・・・だから「泣いてるのかな、笑ってるのかな」と思ったんです。つまり帰りたいのか、帰りたくないのか。返しに行く前、町田に住むご遺族に電話したんです。品のいい年配の女性が出られて「近くまで来たら孫が迎えに行きますから」と言われたので、このお骨は旦那さんだなと思いました。・・・「お骨は笑ったに違いない」と思って。

 それで、お孫さんが迎えにきてくれてお宅に伺ったら、実はお骨はその女性の息子さんのものだと分かったんですよ。「息子は生まれたときから障害があって、ずっとお国のお世話になるしかなかったので、せめて死んでからはお役に立てればと、本人の遺言で献体したんです」と言われました。

 ずっとお母さんが息子さんの面倒を見ていて、その献体のときが母親から離れた最初で最後だったそうです。

 解剖するのに一年間ほどこちらでお預かりしたから、一年経って久しぶりに自宅に帰ることができる。「ああ、あれはうれしくて笑ったに違いない」と思いました。最初はびっくりしましたよ。

 

伊集院 すごくいい話ですね。……でもちょっと待ってください。解剖学をやりながら「このお骨は笑ってる」という感覚って同居できるんですか?

 

養老 そこにはもう一つ解釈があって、お骨が共振するということなんですね。音叉の論理ですよ。同じ音叉を並べておいて、こっちを叩いたらあっちが勝手に鳴りだすでしょ。あれですよ。大型トラックがそばの道路を通って、お骨が固有振動を起こした、と。

 

伊集院 そっちは分かります。そっちはさも先生が話されるような内容だと思います(笑)。でも「お骨が喜んで笑っている」ということと、この骨はカルシウムでできている物質だみたいなことは両立するんでしょうか。

 

養老 そうですね。それが両立するようになったんです。

 

伊集院 なぜですか⁉

 

養老 だって、お互いに排除するわけじゃないですからね。

 

伊集院 僕は、まさにお互いが排除するんだと思い込んでるんですけど。

 

養老 僕からいうと、それは逆に理屈っぽいんだよ。

 

伊集院 まさかこっちが……高校中退のお笑い芸人が学者に理屈っぽいって言われるとは……(笑)。これは同居できるものなんですね。

 

養老 できますよ。状況によって、どっちを取るかというだけです。今の話をトラックの振動とお骨が共振して……という話だと、おもしろくもおかしくもなくなっちゃう。

 

伊集院 おもしろくなくなっちゃうって、まさにこっちのジャンルの話じゃないですか(笑)。両方成立してしまうとうい解剖学の先生がいる⁉抵抗はありませんか?

 

養老 幽霊っているんだよね。だっていなきゃ言葉にならないでしょ。頭の中にいるんですよ。それは間違いない。だから世界中にいますよ。

「外にいる」と言いだすから変なことになるわけです。頭の中には間違いなくいるだろうという話。・・・

 

世間とズレちゃうのはしょうがない

世間とズレちゃうのはしょうがない

 伊集院光さんと養老孟司さんの対談本。面白かったです。

 

P34

伊集院 昆虫でおもしろいのは、意外に変な手間のかかる昆虫が生き残っていることだと思っていて。巣の中でキノコを育てるアリとか、普通に考えたら、こんなの滅んでいいだろうという生き物が滅びないじゃないですか。

 それと似ているのが、以前本で読んだ未開の部族に残っている一見意味のない風習が、実は科学的だった、という話で、たとえば「鷹を捕るときは処女の女性が血を流した上でしか捕ってはいけない」という風習が、その部族では女性の地位を高めたり鷹の乱獲を防いだりと、結果的に理屈に合っていたりする。

 いきなり現象だけを見ると、倫理的にはすごく野蛮に見えるんだけど、科学と離れているところで実は遠回りな効率というか、直接的じゃないことも包括した効率があるんじゃないかと思うんですよ。

 

養老 だからよく分からない風習も、それはそれで世間を維持するために必要なものかもしれないということですね。

 アミメアリも、おもしろい虫ですよ。働かないアリがいるんだけど、そのアリが巣から出ていくことがある。

 

伊集院 どうやって生きているんですか。

 

養老 ほかのアリの巣に、言ってみれば寄生しちゃうんだよね。そしてなぜか、元の巣にいるときも、ほかのアリの巣にいるときも、働きアリは働かないアリのためにせっせと食べ物を運ぶんだよ。

 

伊集院 ほう!

 

養老 アミメアリは女王アリがいなかったり、オスがいなくて単為生殖で繁殖したりと、とにかくややこしい話がたくさんあるんだよ。なんでそんなものがいるのか、という話になってね。

 

伊集院 とにかく理屈ぬきでおもしろいんですね。

 

養老 だから、もういいんですよ。根本的には「ある」んだから。「生きてるんだよね」という話。こういう状況だったら、そういうグループもちゃんと生きられるということが生き物にはあって、そこがおもしろいんですよ、生き物って。

 

P50

伊集院 こうしてお話させてもらって気づいたんですけど、僕が学校を辞めたのは、勉強という世界はゴールが逃げていくってことに気づいたからで間違いないです。ものすごく大変なのに、ここまでやったらゴールだよっていうのがない。だから自分の好きなことをやるほうに向かったんですよね。思えば、そこで古典落語という世界に入ったのも古典というのが、とっくの昔にでき上がって安定している世界だったからじゃないかなとも思います。僕が古典落語を選んだときに流行の最先端は漫才だったにもかかわらず、完成形の見えている世界に行った。

 

養老 もう積み上がりきっている。

 

伊集院 はい。ところがこれがとんでもなく奥が深い世界で、すでに一〇〇だと思っていた落語の満点というのは実は無限大だということが今なら分かりますが(苦笑)。「あれ?これ一〇〇どころか一〇〇〇あるぞ」と。そこに関しては自分の能力のほうが全然ないことに初めて気づいて、「やり遂げたい」なんて大それたことも思わなくなりました。

 

P161

養老 ・・・僕が本当に嫌いなのは、「自分は我慢したから、おまえも我慢しろ」という考えです。戦争中はずっとそうでしたから。この強制が日本の場合はいちばんきついでしょ。あの空気は大嫌いですね。

 ただ、僕は二十八年勤めた大学を辞めた瞬間、世界が本当に明るく見えたんですよ。ということは、それまで我慢していたってことです。でも自分で我慢しているとは必ずしも思っていないんです。授業をするのも、教授会に出るのも、すべて「当然」だと思っていた。辞めて初めて「我慢していた」と気づいたんですね。

 ・・・

「無理をするな」が親父の遺言だって、おふくろはよく言ってましたね。親父は若くして結核で死んだんですよ。自分が無理したことが分かっていたんですね。

 ・・・

 ・・・でも分からないときは分からないんでしょうね、周りの価値観に埋もれちゃって。だから本当は価値観って自分でつくるんだよね。僕はずっとそう思っていました。

こころとお話のゆくえ

こころとお話のゆくえ (河出文庫)

 久しぶりに河合隼雄さんの本を読みました。

 

P39

 ・・・子どもの頃に読んだ面白い話を思い出した。それは「水戸黄門」の講談である。私は講談の愛読者だった。あるところに幽霊が出て人々を困らせるのだが、その幽霊は出てくると、「今宵の月は中天にあり、ハテナハテナ」と言うのである。

 確かになぜ月は中天に浮いているのか、ふしぎ千万である。これに対して、納得のいく説明ができないものは、ただちに命を失ってしまう。恐ろしいことである。まさか、当時は万有引力の法則がわかっているはずもないし、どう答えるのか。ところで水戸黄門は幽霊の問いかけに少しもあわてず次のように答えた。

「宿るべき水も氷に閉ざされて」

 すると幽霊は大喜び、三拝九拝して消えてしまった。つまり、これは、黄門の言葉を上の句とし、幽霊の言葉を下の句とすると、三十一文字の短歌として、ちゃんと収まっている。そこで幽霊も心が収まって消えていったというわけである。

 子ども心にもこの話は私の心に残ったのか、未だにこんな歌の言葉まで覚えている。私は子どもの頃から妙に理屈っぽくて、「なぜ」を連発し、理づめの質問で大人を困らせていたので、論理によらない解決法というのが印象的だったものと思われる。これはひとつの日本的解決法と言えるのではないだろうか。

「収める」という言い方がそもそも面白い。こんなのを英語で説明するとどう言うのだろうか。「解決法」などと言ったが、西洋流に考えると何も解決していないのではなかろうか。しかし、何やかやとごまかして「収める」のは困るが、ある美的判断に基づいて「収まっている」と感じるのは大切なことではないか、と思う。心の葛藤をどう解決するか、という問題は、私の心理療法家という職業にとって大切なことである。そのときに、いろいろと考えたり分析したりして解決法を見いだすだけではなく、ある種の美的判断によって、心を「収める」道を見いだすことも大切ではないか、などと、この頃は考えている。

 

P116

 ・・・最近アイヌの昔話を読んでいたら、「父親殺し」の話があって、大いに興味を惹かれた。そのひとつは、娘と父親(義父)の物語である。実はこの村に病気が流行し、全員が死に絶えそうになったとき、ある母親が神々に祈って、この子を育てて欲しいと願う。それを聞いて、ある神が人間になって彼女を育ててきた。それが父親なのだが、困ったことに彼は「人食い」で低い地位にある神だとのこと。彼は成人した娘を食いたくなって困る。詳しいことは省略するが、彼女は「人食い」の父親を小屋に閉じこめ、それに火をつけて焼き殺してしまう。何とも凄まじいことだが、これが悲劇にならぬところが、アイヌの話の特徴である。

 娘の夢に人食いの父親が立派な服を着て現れ、「お前のおかげで、自分は人食いの罪を犯すのを免れ、位の高い神に生まれ変わった」と感謝する。後はこの神が娘の守護神になって、娘は幸福に暮らす。

 娘が父親を焼き殺したりするのに、結果は悲劇にならない。これはどうしてだろう。それは、この他のアイヌの昔話を読み、アイヌの人たちの生き方について知ると納得できる。それは、アイヌにおいては、人間と自然、神との間や、生と死、などの境目がきつくなく、すべてがつながり循環して全体性を保っているという事実による。娘が義父を焼き殺しても、それはむしろ「火」による浄化であり、父は生まれ変わって幸福になるのだ。

 子どもは親を乗り越えて成長していくのだから、何らかの方法で象徴的に「母親殺し」「父親殺し」をやらなくてはならない。それがうまく行われると、アイヌの話で、殺された父親が守護神になるように、新しいよい関係が生まれてくる。自然の知恵から切り離され、「父親殺し」の物語など忘れてしまった現代人は、象徴的にではなく実際的に父親を殺してしまうような生き方をするようになった。このあたりで少し「物語」の価値を見直してはどうだろう。

 

P172

 ・・・劇作家で演出家の如月小春さん・・・

 ・・・がいかにして感性を磨くかという話題になったとき、・・・ワークショップの話をされた。・・・

 あるとき、予備校から依頼を受け、珍しいことと思っていくと、予備校生たちが教室のなかで硬い表情をして待ち受けていた。そこで、「あなたたち、それぞれ自分に一番ぴったりの場所を選んで、もっとも自分らしい感じの姿勢になって下さい」と如月さんが言うと、生徒たちが動きはじめた。

 見ていると、カーテンにしがみつく子、机の下へもぐる子、教卓の上であぐらをかく子、実にさまざまだが、まず感じとられるのは、すべての子の表情が生き生きとしてくることである。そのようにそれぞれが自分の「場」を確保した後に、いろいろ発表をしてもらうと、各人の個性がよく出てきて、まさにその生徒の感性が輝き出すのが感じられる、というのである。

 ・・・

 自分の好きな場、好きな姿勢、それを思い切って取るだけで、その人の感じるもの、表現するものが個性的になり、その人の感性ということを感じさせる。このことは、日本の教育の現場で、時に思い切って試みてみるべきことではないだろうか。

私はわたし

私はわたし、84歳のスタイルブック

 木村眞由美さんのコーディネートブックを見かけて、あ、3冊目が出たんだと手に取りました。

 コーディネートと共に、この方の語りがなんだかよくて、素敵だな~と感じます。

 

P14

 気心の知れた友人A子に聞かれました。あなた、今年で84歳なのに、まだ服がいるの?どこへ着て行くの?って。私は、A子に答えました。行くとこ作らな、どうすんの?どんどん老けて汚くなるよ。鏡を見るのが嫌になることもあるけど、おしゃれせんで、それ以上汚くなったらあかんって。指輪もせん、口紅も引かん。そんなこと、やめよう、って。

 この質問、実は、シニアにありがちです。お客様にもいらっしゃいます。歳だから、行くとこないし、行かないしって。本当でしょうか?私は、逆です。素敵な服を見たら欲しくなる。病です(笑)。だから、まず買って、それから行くところを決めるのよ。「どっこも行くところないから、いらないわ」じゃないんです。新品の服で街をぶらぶら歩くだけでも楽しいわ。まず、心ときめく服を買って、着る!扉は開き、一歩外へと踏み出せます。

 

P62

 のんびりと過ごしたい。最近、な~んも考えることもなく、あれしたい、これしたいがほとんどない。若さがない!それでいい。

 学生時代は熱かったなあ~。学生運動の走り、何だか訳も分からずに、難しい思想を引き合いに、あ~だこ~だと言い合って、喫茶店の片隅で延々とだべったり。20代は恋して結婚、30代、40代は子育てとお商売であっという間に過ぎていき、50代でほっと一息、二人の息子たちも片づいて、60代、70代もいろいろあった。そして、6年前に相棒とも永遠にさようなら!ちょいと疲れて、80代。

 今日も、行きつけの雑貨屋さんにふらっと寄って、孫の顔がふと浮かび、お正月に来るか来んのか知らんけど……、おっ、きれいやわ~。お正月用の盃5客。これちょうだい。

 84歳、こんな日もある。

 

P72

 80代に入って肥え始め、せっせと歩いて健康維持とシェイプアップに励んでいたのに、オーマイガッ!のコロナですよ。おしゃれの甲斐なく出歩くことも制限され、さあ、困った。お尻にお腹、警戒警報鳴りっぱなし(笑)。それでも、おしゃれを捨てたくないと、ときには食事も制限し、お尻とお腹にキュッと力を入れて引き締めて、隠しのテクニックにも磨きをかけて、インスタ撮影も励んできました。でも、もういいわ~。着たいものを着る。えい、ぴっちりニットでやったれ~。どうだ、お腹の一、二、三段!文句あっか~!(笑)。

 開き直りも諦めも、シニアが心地よく過ごすには大事なことよ。この年になれば、怖いものなし。人が見て不愉快になるのは嫌だけど、人生を面白楽しくまっとうするには、隠さない方が気分いい。ヤバくても、一、二、三段!たまには解放されましょう。

お任せして、面白がる

前祝いの法則

 この辺りも印象に残りました。

 

P245

 僕自身、メンタルがとても弱かったので、いま、メンタルが弱い子の気持ちに寄り添ってあげられるんです。過去の僕自身を助けてあげたいって思いなんです。

 ・・・

 そしてなにより、学生たちに、「可能性をあきらめるな!」って応援したい気持ちでいっぱいなのは、自分が昔、あきらめてしまった後悔があるからなんです。

「自分の可能性にフタをするな。おまえの力はそんなもんじゃない」

 これは、過去の自分が一番言われたかったことなんです。

 それをいま、伝えられるからこそ、これだけこの仕事にやりがいを持てるんです。

 いまはわかります。

 悪夢のような過去も、僕の人生に欠かせなかった。最高の未来の伏線だったのです。

 起きてほしいことがベストではないんです。

 起きたことがベストなのです。

 自分は、ベストを尽くし、その結果は天の采配にお任せすればいい。

 そうすれば、プロセスを思い切り楽しめます。

 ・・・

 それが、人生を面白がるってことなんです。

 喜びが人を大きくし、哀しみが人を強くするのです。

 ・・・

 ほんとうの結果とは勝ち負けではないんです。

 あなたの愛が深まることがほんとうの結果です。

 ほんとうの奇跡とは、外側で起きるものではなく、

 あなたの内側(心のなか)で起きるものなのです。

 進化とは、目に見える、すごい結果を出すことではなく、すごい誰かになることでもなく、愛が深まり、君が君らしくなることなんです。

 

P266

 ・・・「楽しむ」とは、ベストを尽くした先にあるものです。

「ほどよい緊張感」と「集中状態」、そこに「楽しさ」が加わると、爆発的な奇跡が起きるのです。まさにそのことを伝えている、ミュージシャンの甲本ヒロトさんの言葉をご紹介しましょう。

「僕はいろいろなところで人に聞かれるんだよ。

『楽しきゃいいのか?』って。

 いいんだよ。

 そのかわり、楽じゃないんだよって。

 漢字で書いたら同じじゃんって。

 でもね、楽しいと楽は違うよ。楽しいと楽は対極だよ。

 楽しいことがしたいんだったら、楽はしちゃダメだと思うよ」

 

P274

 ・・・人生をフルスイングした人生最後の日の自分から、いまのあなたに感謝の予祝レターを書いてみよう。

 ひすいも書いてみました。・・・

 ・・・

 いまの僕は、「起きることはすべて愛を深めるために起きている。いいことも悲しいこともすべてにかけがえのないギフトがある」とわかっているから、なにが起きてもありがたいという心境だ。

 そして、残りの人生が少なくなったいま、はっきりとわかるんだ。

 生きていること、それは祝福そのものだったと。

 未来の僕から、2018年のひすいこたろうに伝えたいことはなにもない。

 なぜなら、君の未来は、どう生きようが、ここにたどり着くからだ。

 自由にやれ。

 そして間違ったなら、その間違いこそが君の体験したかった正解だから味わい切ればいい。

 だから、起きることを信頼してだいじょうぶ。

 人生は長い夏休みみたいなもんだよ。楽しんで!

 ・・・

 

楽しむことと感謝

前祝いの法則

 楽しむことと感謝が日常に・・・いつもそうありたいです。

 

P115

 1991年の話です。

 巨大台風で、青森県のリンゴが9割も落ちてしまい、多くの農家さんが悲しまれました。しかし、このとき、悲しまなかった農家さんがいたのです。

 なぜ、悲しまなかったと思いますか?

「落ちなかったリンゴを『落ちないリンゴ』という名前で、受験生に売りましょう。1個1000円で」

 すると、なんと、飛ぶように売れたのです。

 あの巨大台風でも落ちなかったリンゴだって、受験生も大喜びで、農家さんも助かったんです。

 同じ現象にもかかわらず、悲しむこともできれば、楽しむこともできます。

 

P194

 感謝が大事だと「知識」ではみんな知っています。

 でも、知識だけでは人は変わらない。実際にやってみること、実践していくことです。そのための有効な1つの方法が手紙を書くことです。

 手紙を書きながら、相手への自分の思い、感情をしっかり「感じる」ことです。

 その自分の感じたことを最後に人に「シェア」する。・・・

 ・・・

 感謝の手紙を書いていると、泣き崩れる子も出てきます。

 それを何度も見るなかで気づいたんです。

 みんな泣くくらいの感謝をほんとはすでに持っていると。

 ほんとは、心の奥深くでみんなすでに感謝しているんです。

 手紙を書くことで、意識をしっかり向けると、感謝があふれます。それをしっかり感じることで変容が起こります。

 さらに、その思いをシェアするなかで、人は自然にその感謝の恩にむくいたくなるんです。誰かを心から喜ばせたいと思うのです。

 

P205

 ・・・生活習慣が変われば、心が変わっていくのです。

 良い習慣が良い心を育むんです。

 高校野球でも、甲子園常連校ほど生活習慣が素晴らしいんです。

「野球の内に野球なし。野球の外に野球あり」

 この言葉は、松井秀喜さんの母校、星稜高校本田実先生に教えていただいた言葉なんですが、その星稜高校では、トイレ掃除は、3年生にならないとやらせてもらえません。トイレ掃除は、それほど重要な位置づけなんです。

 よく、「人生を変える」という言葉が使われますが、その「人生」とはなんでしょうか?

「人生」とは「日常」のことです。

 つまり、人生を変えるとは、日常を変えることなんです。

 挨拶や掃除などの生活習慣のなかにこそ、一番大切なことが詰まっているんです。

 良い習慣が、あなたの心を明るくし、その明るい心が、明るい未来を作ります。

 だからこそ、「予祝」の習慣を作ってほしい。喜びのなかで生活する習慣を作ってほしい。「未来」とは「あなたの心の状態」だからです。

 

P239

 ダイエットにみんな失敗するのは、「痩せなくてはいけない」という恐れを動機としてがんばっているから続かないんです。

 しかし、ダイエットにみんな成功するタイミングがあって、それは結婚式が決まったときだそうですが、きれいな自分を見せたいとワクワクしているから、このときばかりはダイエットに成功するんです。

 西田文郎先生はこう言っています。

「正しいことは続かないけど、楽しいことは続く」

 脳は楽しいことが大好きなんです。楽しくないことはほんとは1ミリだってやりたくないんです。

 だから、やってることにワクワクしてないってことが、実は人生最大のリスクなんです。

 1998年夏の甲子園の準決勝。明徳義塾高校VS.横浜高校

 あの伝説となった試合には、実は、予祝の真髄が隠れていました。

 横浜高校を引っぱるのは、あの松坂大輔投手。

 しかし松坂は、その前日のPL学園との試合で延長17回を投げ抜き、準決勝では先発できませんでした。

 その松坂なき横浜投手陣に明徳打線が襲いかかり、8回表を終えた時点で6-0と大きくリードされ、誰もが負けたと思いました。ところが、8回裏から横浜高校の快進撃が始まり、6-0から、なんと奇跡のサヨナラ勝ちを果たすのです。

 その問題の8回裏、いったいなにが起きたのか?

 円陣を組む選手たちに横浜高校渡辺元智監督が、あるひと言を告げた。すると、チームの空気が一変したのです。

 ・・・

 いったい、渡辺監督はなんと言ったのか?

 それは……。

「この試合は勝ち負けは考えなくていい。楽しめるだけ楽しんでこい!」

 ・・・

 最後の最後、「奇跡の快進撃」に必要だったのは、根性ではなかった。才能でもなかった。執念でもなかった。

 ただ、楽しんでくるという気持ちだったのです。

前祝いの法則

前祝いの法則

 昨日、初開催♪だった新しいセミナー、望む未来「並行世界」につながるコース

https://www.aqu-aca.com/seminar/connectdesiredfuture/

 の参考になりそうだよ、と教えてもらって読みました。

 とてもわかりやすい内容でした。

 

P27

 いま、喜ぶ。いま喜びに浸る。すると、未来においても喜びがやってきます。

「未来」を変える方法とは、「いまの心の状態」を変えることなんです。

 これが、予祝の本質です。

 有名人たちも無意識に、この予祝を実践しています。

 ・・・

「メイク・ミラクル」「メイク・ドラマ」という和製英語を作った野球の長嶋茂雄さんの予祝例も劇的です。

 1959年、天皇・皇后両陛下を迎えて行われた天覧試合。

 巨人VS.阪神。9回裏で4対4の同点。両陛下が警備の都合上、野球観戦できる時間は21時15分までだったため、延長戦に入った場合、陛下は途中退席になるという状況でした。

 9回裏、この大事な場面に先頭バッターとして回ってきたのが長嶋茂雄さんです。天皇陛下が退席されるタイムリミットまであと3分という21時12分。

 実は、天覧試合前、長嶋さんはスランプのドン底にいました。だからこそ、本能的に「予祝」をやってのぞんでいたのです。

 長嶋さんは、試合前日、最寄りの駅でありったけのスポーツ新聞を買ってきて自分で見出しを書き込んでいったのです。用意した赤、青、黄、緑色のマジックで、新聞1紙ごとに「長嶋、天覧試合でサヨナラ本塁打」などと大きく書き込んでいった。

「長嶋の一発に尽きる。さすがにゴールデンルーキー。歴史に残る一発だ」

 そんなふうに監督談話まで勝手にマジックで書き上げ、試合前日に先に喜び、祝杯をあげていたのです(笑)。

 で、実際の試合はどうなったのか?

 すべて予祝どおりのサヨナラホームランです。

 さらに、1992年のプロ野球のドラフト会議の目玉、のちに巨人軍不動の4番となる松井秀喜選手の交渉権を獲得できたのも予祝です。

 なんと前日、自宅で、くじ引きをして松井を当てて先に喜ぶ予祝をしていたのです!(笑)

 さすが長嶋監督!めでたく、松井秀喜選手の交渉権を獲得しています。

 

P55

 なぜ予祝で夢が叶ってしまうのか?

 それは、未来に夢が叶ったときと同じ喜びをいまの時点で感じることで、現在の気持ちが夢が叶ったときと同じ周波数になるから、その未来を引き寄せることができるのです。

 それが予祝の力なのです。

 テレビの「リモコン」と「テレビ画像」の関係と同じです。

 東京では1を押せば、NHKが映るように、リモコンから発する周波数と、共鳴共振する、同じ周波数のテレビ局がテレビモニターに映るわけです。

 このテレビの「リモコン」に該当するのが、あなたの「心の状態」で、「モニター」に該当するのが、いまあなたが見ている「現実」です。

 もし、あなたの心の状態が、いま、恐れでいっぱいなら、雰囲気は暗くなり、あなたの「モニター」(現実)にも、恐れがいっぱいの現実があらわれます。

 心の状態が、いま、喜びでいっぱいなら、雰囲気は明るくなり、喜びいっぱいの現実になっていくのです。

「経験とは要するに共振である」

神との対話』(サンマーク出版)で、世界27ヵ国に翻訳され、ベストセラーになったニール・ドナルド・ウォルシュの言葉です。

 

P68

 フランスのエミール・クーエというお医者さんが、患者さんに、毎日、朝起きたときに鏡に向かってこう言うように指導したそうです。

「毎日少しずつ、わたしの身体のすべてが、いま、ますます良くなりつつあります」

 なんと、これで、非常に多くの患者さんが驚異的な回復を見せたというのです。

 治療不可能と思われていた患者さんも、見事に治癒してしまった。朝起きたときに、自ら口に出す言葉は、無意識へと働きかけ、爆発的な治癒力を引き出したのです。

 これは「クーエ療法」と名づけられています。